『ヱヴァQ』は“劇場版・ニーバーの祈り”である

EWマンガ朝話

みなさんおはようございます。

大阪市・越谷市のウェブ制作会社エンジョイワークスがお送りする

『EWマンガ朝話』の時間がやってまいりました。

 

今回は、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』について語りたいと思います。

油断すると記事5本分くらいいっちゃいますので、サクサク進めてまいりましょう。

 

 

 

 

俺はヱヴァQが大好きだ!!!!

いちおうTVシリーズ・旧劇・新劇とひととおりみてきましたが、

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』は2番目に好きです。

1番はEOEということで、まぁアレを超えるのは無理な話ですが、かなり好き。

 

それで気になるのは、ファンから否定的な意見が多いことなんですよね。

特に多いのが

 

「『破』までのアツい流れを台無しにしやがって」

 

という声なんじゃないかと思うんですけど、

いや、私に否定するつもりも権利もありませんし、

言っちゃなんですけど至極当然そのとおり。

 

ただ「アニメ映画にそんな要素を求めちゃいねぇ」と怒られそうなのにビクビクしつつも、

やっぱり擁護したい気持ちに駆られてしまうわけなんですね。

 

 

なんでか。“ 切 実 ”だからですよ。

設定やらあらすじやらも超濃縮版ということでご容赦いただきますとして、

ヱヴァQのストーリーを端的に説明すれば

「よかれと思ってやったことが全部裏目にでちゃってそれを受け入れられない人の話」

ということになりますが、これね、なんだかものっっっそい身に覚えがある。

 

相手のためになるはずだ、きっと喜んでくれる、きっといい結果になる。

そう思って行なってみたら、予想しなかった非難や失敗にあい、

 

「なんでそんなこというんだよ!」

「俺は精一杯やったのになんだよ!」

 

と、やり場のない激情に飲み込まれた経験を、

きっと誰しもが抱えていらっしゃるんじゃないでしょうか。

 

 

でもね、こればっかりはもうしょうがないの。

自分がよかれと思って何かをするのが自由なように、相手がどういう反応をするのかも自由。

人には自分の幸せを追求する権利があるが、それは相手もまた同じなのです。

それが他人、そしてコミュニケーションというものではないでしょうか。

 

劇中、主人公の碇シンジくんはほんとうに可哀想の極み乙女です。

目が覚めたら十何年も時が過ぎていて、少女を救ったはずがどこにも居らず(居るには居る)、

仲間だったはずの人たちから忌み嫌われ、頼りたい父親も手ひとつ差し伸べない。

親友だと思った友だちに勧められる形で世界を救おうとするが、友だちは死に、

結局なんかしらんけど作戦も失敗してしまうなど。

 

しかしどんなに可哀想に写っていても、どうしようもない。

だって相手はそう思ってしまっているのだから。

 

「なんで誰も褒めてくれないんだよ!」

「責められるぐらいなら、他人なんかいなくなっちゃえ!」

 

というのは、最初にベストとしてあげたEOEでの破滅型セカイ系シンジくんですが、

今作のシンジくんは結果的とはいえ、その手前でなんとか踏ん張ったように思えるのです。

 

 

ヱヴァQは“劇場版・ニーバーの祈り”である。

とつぜんですが、私には息子がおります。

まだ幼児なので、当然自分の思い通りにならないと

駄々をこねたりぐずったりすることもあります。

 

そんなとき、私は彼にいつもこう諭すのです。

 

「ええか◯◯、世の中にはな、自分ではどうにもならんこともあるんやで」

「しょうがないことは諦めて、前進まないかんときもあるんやで」

「いややな、かなしいな、でもしゃーないねんなあ」

 

 

 

自己啓発業界では“ニーバーの祈り”としても有名ですが、

自分に変えられることと変えられないことを見極める勇気は、

人生におけるさまざまな場面で必要とされるものです。

 

「プレゼントを渡したのに受け取られなかった」というミクロな事象から、

交通事故、自然災害といったマクロな事象まで、

自分の力が及ばないことに対していかに見切りをつけるかが、

私たちには日々問われています。

 

そうした精神的な支柱を、息子にも、シンジくんにも、

そしてもちろん自分自身にも身につけていって欲しい___。

 

 

ヱヴァQは私たちに、生きることの厳しさを

突きつけてくれる稀有な作品なのです。

 


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